実は現在のキーボードの前身といえるタイプライターが発明された120年前には、タッチ打鍵が可能であるとは考えられていなかった。これが一般化するには、約40年の歳月を必要とした。すなわち、タッチ打鍵が普及したのは今世紀に入ってからである。
今回はこうしたタイプライターの歴史を概観し、さらにタイピングの認知科学的な検討と、それに基づく練習法について解説する。
この頃は、レミントンのタイプライターも、キーボード上の文字を見ながら、1本か2本の指を使って打鍵するのが一般的であった。したがってレミントンが特に速く打てるといった事はなかったのである。
こうした状況の中で、1882年に L. V. ロングリー夫人は自分のタイプ学校における指導経験に基づいて、10本の指を用いてタイプすべきであるという主張を行ったが、彼女もキーボードを見ないで打つべきであるとまで主張するには至らなかった。
こうして、タッチ打鍵の優位性は確立されたが、これが一般化するにはさらに20年以上の歳月が必要であった。というのも、タッチ打鍵が出来るのは、特殊な才能の持主だけであると考えられたからである。1900年の段階でも、タイプ学校の半分は未だタッチ打鍵を教えていなかった。これが全学校に及ぶのは1915年頃のことである。
タイプのコンテストの優勝者の記録を見ると、1905年に80語/分であったものが、1915年には130語/分に上使し、その後は、大体一定役を保っている。したがって、この10年間の進歩は教育法の改善によるものと考えられる。
130語/分というのは、打鍵数に直すと5倍して650字/分ということで、1秒に10回以上打鍵していることになる。ちなみに、これまでの最高打鍵記録は216語/分である。これは1秒に18回打鍵していることになる。
これらの数値を日本語に直すと、ローマ字は英文2字でカナ1字に大体対応するので、優秀なタイピストは1秒に5文字、1分間に300字を入力できることになる。これは、ゆっくりしゃべる速度とほぼ同じである。
例えば、1秒に4文字以上打てるタイピストに左、右の信号を与えて、両手の人指し指で打鍵反応の行う実験を行ったところ、1秒に2文字以下しか打てなかったことが知らている。この事は、1文字ずつ認識しながら打鍵をしたのでは、英文タイプを打つ時の速度は出ないことを示している。
それではどのようにして打っているのかというと、熟練したタイピストは打鍵するテキストの単語または句を塊としてとらえ、その塊の先の方から指の運動として実行していくのである。この様子は図に示すと分かりやすい(図1)。
タイピストの目から入った文字情報は、脳内で指の運動の情報に変換された後、出力バッファに蓄えられる。このバッファは待ち行列になっていて、先に入ったものから指への運動の指令として出力されていく。こうした全体の過程が、指の感覚や耳から入る打鍵音によって制御されるのである。したがって、目は打っている文字よりも何文字か先を見ていることになる。
覚えたてのタイピストの場合はこうはいかない。1文字1文字打っていくことになる。タイプのスピードが上がるには、このような先読みが出来るようにならなければならない。
このようなタイピングが出来るようになるには、数百時間の練習が必要となる。何しろ、主な英単語に対してそれを見たら指が自動的に動くようにするのであるから、これ位時間がかかっても仕方がない。そして、指が無意識のうちに動くようになるには、千時間のタイプ経験が必要であると言われている。これは長いように感じられるかもしれないが、タイピストは打つのが仕事であるから、1年もすればこの時間は達成できる。ここまで来れば、タイピングは楽な仕事となる。
こうした熟練タイピストの能力を示す例として、おしゃべりをしながらタイプ出来ることがあげられる。タイプしている内容はおしゃべりとは関係がない。目でテキストを見て指が動くプロセスは完全に自動化されていて、無意識の行動となっているのである。
タイピストでない一般的が打つ場合、ここまでの熟練は必要とされない。しかし、1人の人間が使う単語は限られている。タイピストと違ってその単語の打ち方さえ覚えればよいので、百時間も打っていれば自分の使う単語は意識しないで打てるようになってくる。
日本語の場合、ローマ字入力が普通であるが、この場合、カナ1文字を英単語のように考えれば、数十時間で綴りを意識しないで打てるようになる。この頃には、よく使う文字列も綴りを意識しなくなっているはずである。
ローマ字は英字に分解しなければ打てないので不自然であるという主張があるが、これは自分がローマ字で打ったことのない人間の憶測である。数十時間という時間はワープロを日常的に使うようになれば、1、2ヵ月で達成される。その間は綴りを意識せざるを得ないように思えるかもしれないが、むしろ意識をしないで打つ練習をした方が上達するのである。
前に紹介した「TUTタッチタイピング」という練習ソフトウェアでは、打鍵を行っても、カーソルが動くだけで、何が打たれかはその場では表示されない。単語単位で打つくせをつけるためにそのようになっている。結果は1分間の練習の後で示される。1分というのは、集中が続く時間がこの程度だからである。もっと長く練習させるソフトも多いが、こうしたものは若者には通用しても、運動能力の落ちた中高年には難しすぎる。
普通の練習ソフトは打ち間違えると音を立てて警告し、正しく打たれるまで先に進めないようになっている。これは、そのように作るのが簡単だからそうなっているが、練習を始めたばかりの人が間違うのは当然であるのに、その度に叱られるのでは、練習する気を失いかねない。また、少し上達しても、間違う度に止められて集中がとぎれるので、練習の能率が上がらない。
それでも、文字の位置を覚えるところまで来れば、その後は使っていれば自然に上達するので、とにかくこの技階に到達することがまず必要である。
一般人といえども、速いに越したことはないが、こうしたプロ向きの入力方法は練習次第で一般人も使いこなすことが出来るのであろうか。
一般に、タッチ入力を楽に行えるキー数は30である。40位まではあまり問題なく使えるが、50を越すと極端に難しくなる。カナ入力はこの数に近いので、習得は相当困難である。その上、キー配列の設計が悪く、タッチ打鍵を考慮していないので、非常に打ちにくい。若い女性が長期訓練を受けてはじめてタッチ打鍵が可能となるので、普通の人には勧められない。
親指シフトの場合、キー数は30なのでタッチ入力は困難でない。しかし、問題はシフト操作にある。シフト操作を行うには、対象とするキーを同時にシフトキーを打鍵しなければならない。これは、2つのキーを連続して打鍵するよりも難しい操作である。この難しい同時打鍵が頻繁に起るところに、親指シフトの問題がある。
英文タイプの場合、最初のレミントンのタイプライターは大文字しか打てなかったのが、小文字の要求が生まれたために、シフトキーを後から加えることとなった。このために、打ちにくい小指で操作することになってしまった。これをより打ちやすい親指にした事は評価できるが、頻繁に使うことは相当無理がある。むしろローマ字のように2打鍵の連続にした方がずっと打ちやすいのである。
ローマ字入力の問題は、英文タイプの配列を流用した点で、合理的な配列になっているとは言い難いが、それでも一般人が実用するには大きな問題はない。タッチ打鍵が出来るようになることの方が、カナキーを見ながら叩くよりはるかに能率がよい。
もっと大きな問題は、カナ漢字変換である。このために、英文タイプと違って完全なタッチ入力にならず、変換結果を確認しなければならない。この点について、次回は議論することにしよう。