「PC Work!」 95年4月号 日本キーボード物語

辞書を引かないと漢字が書けない  

大岩 元   



アメリカで百年前に始まったタイプライターの使用が普及するとともに、手 を見ないで打つタッチ技法がタイピストの間で確立していった。先月号では、 タッチ技法を認知科学的に解釈すると、タイピストは文字を1字1字見て打っ ているのではなく、単語単位でとらえて打っていること、そして、単語単位で 打つようになると、単語のつづりは意識せず、単語を見ると指が自動的に動く ようになることを解説した。

このように日常的な英単語に対して指が反射的に動くようになるには、数百 時間の訓練が必要である。また、こうした打鍵動作が文字通りの反射運動となっ て、しゃべる時の同じ自然な動きとなるには、千時間のタイプ経験が必要であ る。この時間は長いように感じられるかもしれないが、タイピストとして働き だせば、1年程度で達成される時間である。

負担の大きな日本語入力

日本語を入力する場合、現在ではローマ字で入力してカナ漢字変換をするの が一般的となっている。プロの場合、ローマ字の代りにカナ・キーボードを使っ たり、親指シフトキーボードを使ったりするが、カナ漢字変換をすることにか わりない。ここに現在の日本語入力の大きな問題がある。カナ漢字変換はコン ピュータ上で辞書を引くことである。カナ漢字変換は辞書を引かないと漢字が 書けない万年筆のようなものである。

変換をすれば、結果を確認しなければならない。こうした動作は英文タイプ の場合には必要がない。思いつくままの英文を手の動作として表現していけば よい。情報は人間の脳から手の運動への完全な一方通行となる。

これに対して日本語の場合には、変換をするごとに画面を見て、正しい漢字 を選ばなければならないので、脳から手へ行った情報は、画面からまた脳にも どってくることになる。

電子メールを書くときのように、考えながらキー入力を行なう場合には、脳 の中では、まず書きたい情報が文の形で発生される。これが文節単位に指の動 きに翻訳されて、手に伝えられて打鍵が行なわれる。英語の場合はこれが繰り 返されるだけであるが、日本語では、この後に漢字の選択という脳の作業が加 わることになる。

書き手が意識しているのは、書きたい内容である。ところが、漢字の選択は 内容を表現する漢字という1段下のレベルで作業を行なわなければならない。

このように、異なるレベルの作業を頻繁に繰り返すのは、脳に大きな負担を かけることになる。そこで、内容に意識が偏ると誤変換をするし、漢字の選択 に注意を払うと書きたい内容が分らなくなってしまう。

プロのタイピストの場合には、与えられた原稿を打つので、事情が異なる。 彼らの場合、考える必要が無いので、英文の場合は目で見たテキストを指の運 動に変換するだけでよいことになる。この作業は反射運動なので、脳は遊んで いられる。となりのタイピストと世間話をすることも可能となるのである。

日本語の場合には、ここに漢字の選択という脳を使わざるを得ない作業が加 わることになる。世間話をしているわけにはいかない。そこで、プロのタイピ ストはどうするかというと、変換機能についている学習効果を殺して、変換キー を何回たたくとどの漢字が出るかということを体で覚えるのである。学習効果 は最近使われた変換内容を覚えていて、それが最初に出てくるようにしてくれ るが、その結果として目で確認することが必要となる。これでは目が酷使され てしまうので、これを効かなくしてしまうと、英文タイプと同じになるわけで ある。一般人にとって便利な機能も、プロにとっては邪魔物となってしまうの である。

英文タイプと同じ負担の2ストローク入力

このように、プロが入力する場合には文字列に対して指の運動が決まってし まい、確認の必要が無いことが必要となる。熟語に対して、変換キーを何度た たくかまで指が覚えるのなら、むしろ漢字1字1字に対して綴りを決めておい た方が合理的である。こうした入力法を2ストローク入力という。

実はこの方法の方がカナ漢字変換よりも歴史は古い。昭和46年の第1回日 米コンピュータ会議に「ラインプット」という方式として川上晃、川上義両氏 によって発表されたものが、最初である。これは、カナ・キーボードを用いて、 カナ2文字で漢字を表わすという方法である。漢字の綴りを決めるにあたって ラブは愛、ミラは鏡といった連想を用いたので、連想式として知られている。 その後も同様のいくつかの方式が提案され、実用に供されてきた。

カナ・キーボードは48キーあるので、48の2乗の2304字の漢字を指 定することが出来る。これだけあれば、常用漢字1945字以上をカバーでき るので、実用上は問題がない。

問題はタイピストがこれだけの漢字の綴りを覚えきれるのかということであ る。これが、やってみると大して難しくないのである。この事は、英文タイプ の場合にタイピストは綴りを意識せずに指が動くようになっていることを考え れば、不思議なことではない。英単語の音節にあたるのが漢字であると考えれ ば、400時間位訓練すれば、覚えられるのは、当然の事となる。

ワープロの出現

ワープロが日本で初めて発売されたのは昭和53年の事で、1台600万円 以上した。このワープロを開発したT社の技術者の話によると、彼がよいと思っ た入力法は2ストローク入力の「ラインプット」であったが、漢字のコードを ユーザーに覚えさせるような商品は売れるはずがないという経営判断で、カナ 漢字変換方式が採用されたそうである。

その後、ワープロは各種の入力方式を採用した製品が次々と発売され、市場 でその優劣が競われることとなった。日本人にはキーボードは向かないという ことで、前からあった和文タイプと同じタブレットを用いて、ペンで指示する 方式も発売されたが、タッチ入力が出来ないことから、結局使われなくなって しまった。

プロにとっては、タッチ入力は不可欠であるが、一般人の場合は、キーボー ドを用いても、タッチ入力は行なわない場合が一般的である。プロの数に比べ て一般人の方がはるかに多いのにもかかわらず、一般人はあまり使わないタッ チ入力の可否が決め手となって、タブレット入力が使われなくなっていったの は、興味深いことである。やはり人間は、当面自分では使わなくても、プロと 同じ方式を使って安心したいのかもしれない。

2ストローク方式は、大手のH社、R社が協同開発した方式が両社のワープ ロに搭載されたが、一般化するにはいたらず、R社はワープロから撤退していっ た。こうしたものの一つとして、エプソンが採用した「タッチ16」という入 力方式がある。これは、私が昭和55年から56年にかけて豊橋技術科学大学 で開発した2ストローク入力を商品化したものである。

「タッチ16」

「タッチ16」は一般人のための2ストローク入力を目指したものである。 まず、カナ入力に関して、打ち易い中段と上段の16個のキーだけを用いて入 力できるようにした(図参照)ので、カナのタッチ入力は30分か1時間で一 応できるようになる。このカナ入力は、ローマ字入力と同じように、50音表 の行を左手で、段を右手で指定するようになっている。打ち易いキーを左右交 互に打つことによって、清音のカナが入力できるので、覚え易いだけでなく、 打ち易くなっている。ローマ字と違うのは、母音の場合も「あ」行を指定しな ければならないので、2打鍵となることである。10行5段で15個のキーを 使うが、この他に濁音、半濁音、拗音などのためにもう1つのキーを用意して ある。このキーを使う場合は左右交互打ちにならないが、リズミカルに打てる ような位置に配置してある。

たまにしかワープロを使わないユーザーには、これにカナ漢字変換の機能が あれば十分である。しかし、こうしたユーザーも、タッチ入力をすべきである。 このために、「タッチ16」はローマ字入力よりも覚え易く打ち易いように 「あかさたな」「はまやらわ」「あいうえお」が順に並ぶように工夫されてい る。

毎日ワープロを使うようなユーザーには、これだけでは不十分で、漢字を直 接入力出来るようにしてある。連想式はカナ・キーボードを用いていたので、 48キーのタッチ入力をマスターできるのは、プロになろうという若い女性に 限られていた。「タッチ16」では、英文タイプと同じ30個のキーで漢字を 直接入力出来るようにした。しかし、30の二乗は900で、これでは漢字の 数が不足する。また、すでにカナ入力のために16個のキーを使ってしまって いる。そこで、残りのキーで漢字を直接入力出来るようにするために、頻度の 低い漢字は3ストロークで入力することにした。

タッチ入力の出来る人には分ることであるが、打ち易いキーであれば、打鍵 数が2から3に増えるのは、あまり苦にならない。打ちにくい最上段の数字を 打つ方がいやである。使うキーを増やさず、3ストロークを採用したのは、こ うした理由からである。

各漢字の綴りを決めるにあたって、連想は一切用いなかった。連想は覚え易 そうに思えるが、実際には連想が効くのはせいぜい数十までで、数百の漢字を 全部連想で覚えるわけにはいかない。さらに悪いことに、連想で覚えると、漢 字、連想コード、指の動きと3段階を経ることになってしまう。理想的には漢 字を思い浮かべたら直ぐに指が動く方がよい。こうした動作に連想が入ると、 かえって混乱して間違い易いことが、2ストローク入力を実用にしている人の 間では知られている。

それではどのようにして綴りを決めたかというと、頻度の高い漢字には打ち 易い綴りを割り当てるという方針をとった。試作したものを使ってみると、各 漢字が打ち易くても、漢字と漢字の間のつなぎが打ちにくいと、入力に影響が 出ることが分ったので、2ストロークで打てる725字の頻度の高い漢字につ いては、2文字組の頻度の高いものが打ち易くなるようにという設計方針に変 更した。頻度の低い3ストロークの漢字は1800字用意したが、これについ ては当時の計算機では計算時間がかかりすぎるので、1文字の頻度だけをたよ りにして、綴りを決めた。

「タッチ16」は現在のラップトップ・コンピュータのはしりであるエプソ ン社のHC-88の発売に合わせて、大々的に売り出されたが、一般に普及す るには至らず、現在はエプソンもサポートを行っていない。しかし、印刷業界 を中心にこれを用いているユーザーの評判は極めてよく、サポートの継続を私 は望まれている。

次回は「タッチ16」がどのように使われ、今後はどうなるであろうかとい う点について、私の考えを述べることにする。興味を持たれた方は、NIFTYの FKBOARDの8番会議室「日本語直接入力(T/ TUT-CODE,風..)」に現在どんな環境で使えるか等の情報が集まっているので、 覗いてみていただきたい。


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