情報教育論 講義ノート第4回 (実施・01/11/05)

“人にとっての情報”と記号学


今日の講義内容


01・“人にとっての情報”おさらい
02・情報と記号学
03・記号学の基本概念
04・記号学から見た“読むこと”と“表すこと”
05・記号学の提示する世界観
06・記号学の考察対象
07・記号学的発想から見た日常世界の情報
08・情報教育に記号学を取り込む意義




01・“人にとっての情報”おさらい


・情報教育における“情報”の捉え方の問題


・“情報”の指し示すところ

  1. Data
  2. Information
  3. Knowledge
  4. Intelligence

・情報教育に関する議論においては、(やや?)1の側から2,3,4を捉える発想が強調される

・2,3,4を対象として捉え、掘り下げる発想も必要




02・情報と記号学


・Information、Knowledge、Intelligenceといったものは、「物事の意味」と深い関連がある


・「意味」は「表現」と密接に関連する


・記号学は「意味と表現」とを考える学問
 → 人間の認識のありよう(認識論)と、認識によって捉えられる物事のありよう(存在論)に結びつく
 → 実証科学(経験科学)としての認知科学と密接に関連する


・記号学は“人にとっての情報”を議論するための一つの土台を提供する




03・記号学の基本概念


・ここでいう記号学とは、F・ソシュール、丸山圭三郎の流れを汲む“フランス系”記号学


・記号・・・“何かを意味する何か”(菅野・1999)
 → 日常を構成するあらゆるものが記号でありうる
 → 例えば、あなたの目の前に立つ“私”も記号である
 → 人間は記号(すなわち意味)に囲まれて生活する。片時もそこを離れることはできない


・記号は、“意味(内容)”と“表現”の二つの側面を持つ
 → “意味(内容)”と“表現”は常に不即不離の関係にある


記号内容・記号表現の図


・以下の発想との違いが重要


表現と内容の分化の図


・認識されるのは常に記号そのもの
 → “意味(内容)”と“表現”との区別は、事後的な分析によってはじめて見いだされる


・“内容”と“表現”との結びつきに必然性はない
 → それらの結びつきは、文化的な約束事(コード)によってのみ保証される(恣意性の原理1)
 → 例えば<犬(内容)>を「イヌ(表現)」と呼ばなければならない必然性(自然的根拠)はない


・記号は常に他律的な存在
 → 記号の認識は、他の記号との“差異”を通してのみおこなわれる
 → 例えば「学生」という記号の意味は、他のあらゆる「学生でないもの」との差異によってのみ認識される(記号Aの存在は、あらゆるnot Aの存在によってのみ保証される。下記を参照)


他律的な記号Aの図


・世界から記号を見いだす働きを“分節(articulation)”と呼ぶ
 → 記号が見いだされる以前の世界は、モノやコトの区別の存在しない“連続体”(カオス)
 → “連続体”に分節線を引くことにより、記号が見いだされる
 → 分節とは、カオスに何らかの秩序を与える行為
 → 秩序は、文化的な構築物であるコードによって(のみ)与えられる(恣意性の原理2)


・コードとコンテクストの相補的関係
 → コードの拘束力は絶対的でない
 → コンテクストの介入によって、コードの与える分節線は変化する
 → 例えば「ありがとう」の意味は、発話のコンテクストによって異なる




04・記号学から見た“読むこと”と“表すこ”と


・表現も意味も、読み取られてはじめて実在が許される
 → 分節のないところには表現も意味もない


・表現や意味の認定権(あるいは決定権)は、原理的に“読み手”の側にある
 → 「何が「表現」として認識されるか」「どのような意味が読み取られるか」は、読み手によって読み取られた通りでしかない
 → “表し手”の手を一旦離れたものは、原理的に制御不能


・“表すこと”は“伝えること”を保証されていない
 → 表現と伝達とは本質的には別々の行為


・従って、“この本の内容”はあらかじめ存在しない(形而上的存在としての「客観的意味」の否定)


形而上・形而下の図


 → 「表現と意味(内容)の不可分性」は、「形而上(the physical)・形而下(the metaphysical)の絶対的な分化」を否定する
 → 従来の形而上学的認識・・・表現(形而下の存在)には、その本質的としての意味(内容・形而上の存在)が付随する
 → 表現すなわち意味は、読み手との関わりと無関係には存在しえない




05・記号学の提示する世界観


・世界は記号(=意味)によって構成される
 → 人は分節を通してのみ世界を認識しうる
 → 私たちが認識しているのは、分節されたあとの世界


・分節の秩序(=コード)が、(認識される)世界のあり方を決める
 → コードの有り様によって、世界はいかようにでも姿を変える
 → 文化・習慣・世界認識の違いは、コード間の差異に還元される(例えば「先進文化と未開文化」といった対立の捉え直しに結びつく)


・コードを形成するのは、個々の具体的な分節の実践
 → 私たちの側が積極的に働きかけることにより、コードに変化がもたらされる可能性もある
 → ゆえに、私たちの意識的な実践によって、世界の姿が変化する可能性もある(例えば意図的、あるいは偶然的なコードの逸脱)
 → 分節の、世界に対する積極的な働きかけとしての側面を、特に「意味づけ」と呼ぶ


・人間の存在と無関係に意味(=情報)は存在しない
 → 意味は分節とともに生まれる
 → 例えば私たちとは無関係に「イヌ」は存在しない
 → 絶対的な意味での「客観的情報」は存在しない




06・記号学の考察対象


  1. 言語
  2. 神話・物語(思考・行動を支配するメタ・コードとしての)
  3. 文化的慣習(例えば宗教意識とタブーについて、身振り・所作の儀礼的意味、食文化、交換(経済)のあり方・社会制度のあり方など)
  4. 芸術
  5. その他の人工物(例えば建築物、民具などの物質文化、ファッション、メディアテクスト、ソフトウェア、その他有形無形のあらゆる人工物)

・とにかく“言葉的なもの”として捉えられるあらゆる現象 は考察対象となりうる




07・記号学的発想から見た日常世界の情報


<例1>「授業の選択」と情報
 → あとから振り返って、「授業の選択」に影響を与えた“情報”とはいったい何だったか
 → その“情報”を手に入れたとき、本当に“情報の収集”を意識していたのだろうか
 → 「情報収集」という観点から振り返った時に、見落とされたものはないだろうか(例えば授業のタイトルの記号性は?)
 → “慣習(あるいは「これまでのやり方」に基づく先入観、視野を限定する漠然とした要因)”はどれだけの影響力を持ちうるか


<例2>「テレビの視聴」と情報収集
 → テレビを見ているときに、「情報の収集」をどれだけ意識しているだろうか
 → 結果的に“情報”として役だったものは、どのような経緯で頭の中に入ってきたか


<例3>「メモを取る行為」と情報の生成
 → 「メモを取る行為」は一見すると情報の生成に結びつく
 → しかしながら、「メモとして取られたこと」は、無条件に“情報”たりうるか
 → 「メモを取る行為」自体の動機に、“情報”という要因はどれだけ関わっているか


<例4>「ホームページを出すこと」と情報の発信
 → 「ホームページを出すこと」は、情報の発信とどの程度関連するか
 → 「ホームページ」、「ホームページを持っている人」、「ホームページを持っていること」は、どのような記号性を有するか
 → 「ホームページを出すこと」が情報の発信に結びつくためには、どのような条件が必要か




08・情報教育に記号学を取り込む意義

・少なくとも、以下のことを学ぶことができる



 → 例えば“読む”という行為自体は、非常に慣習的(かつ無意識的)な側面を持っている
 → また、その際の私たちの視野は自ずとコードによって限定されている
 → そのような“読む”という行為と、“情報の収集”との間に、本質的な境界線は引けない
 → 従って、その境界線は、私たちが意図的に引いてゆかねばならない


・また、情報発信を試みる際に考えるべきこととして、以下のことを学ぶことができる



・これらを通して、逆に、“情報とは何か”についてを問い返す契機となる
 → “情報”を出発点(前提)としない情報教育
 → 学習者自らが“情報とは何か”についてを考える(考えざるを得ない)




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